35年の生涯

今日は久しぶりにお天道様がでてきたので

仕事で八王子、相模原方面に行くたびに

行きたくてしかたなかった

高幡山明王院金剛寺へ参拝に行ってきました。

私、故郷會津は

新撰組ゆかりの地。

鬼の副長 土方歳三が療養した會津の地。

天寧寺(石段が200段あります)

の裏手の墓地には

土方歳三が藩主・松平容保に

請願して建てられた

新選組局長、近藤勇の墓があります。

そして

阿弥陀寺には

謎多き斉藤一の墓が。


【土方歳三】

天保6年(1835年)~明治2年(1869年)

武州多摩郡日野宿石田村生まれ。

土方義諄の末子で、名は義豊。

生前父は死去。次兄・喜六夫妻の手で養育された。

丁稚奉公を経て、

家伝の石田散薬行商の傍ら、

義兄・佐藤彦五郎宅の道場で

天然理心流の剣を学び、後

に試衛館に寄食。

文久3年、近藤勇らと共に上洛、

新選組副長として活躍。

慶応4年、負傷した近藤に代わり、

新選組を指揮して鳥羽・伏見の地で戦う。

帰東後、甲陽鎮撫隊を結成。

近藤の刑死後も奥羽各地で転戦。

旧幕軍の箱館政府樹立後は陸軍奉行並となる。

明治2年5月11日、

箱館攻防戦の最中、流弾にたおれた。

【高幡山明王院金剛寺】

真言宗智山派別格本山、高幡山明王院金剛寺は古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。

その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。

のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で関東稀に見る古文化財である。

続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。

足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。

(高幡山明王院金剛寺HPより)


楽しくてつい長く滞在してしまい

土方歳三資料館へ寄ることはできず。

お墓参りとあわせて次回訪れようと思います♪

何度でも来てしまいそうです♪



石田寺(せきでんじ) - 新選組のふるさと日野 - 日野市観光協会

Home » 新選組市内探訪 » 石田寺(せきでんじ)人の心を捉える歳三の生き様宗派は真言宗、愛宕山地蔵院石田寺。高幡山金剛寺の末寺です。5月11日は土方歳三が35年の生涯を閉じた命日。死後百年以上過ぎた今も、5月第2日曜日に行われる「歳三忌」には、石田寺は全国から歳三の追悼に訪れた歳三ファンで埋まります。墓石は静かに若者たちの姿を見つめています。「石田寺」を詳しくはこちらカヤの大木の下を墓所に進むと右手に「土方歳三義豊之碑」が立てられています。これは、早くして両親をなくした歳三の親代わりでもあり、家督を継いだ兄、喜六の曾孫にあたる土方 康氏が昭和43年(1968)に明治100年を記念して建立したものです。1867年12月(慶応3年)王政復古の大号令があり、翌1868年7月に江戸が東京と改名。同年9月には元号が「明治」と改元されました。歳三が亡くなったのは翌明治2(1869)年5月、その時には蝦夷地だった場所も、同じ年には名称も北海道に改められ、開拓使も設置され、北海道の開拓が本格化していきました。この碑から明治100年に込められた子孫の方の想いがはかられます。 土方歳三の墓所はさらに進んだ所にあります。境内には墓所を示す案内板が立てられており、場所はすぐ判ります。5月11日の命日以外でも年間を通して、献花の絶えることはありません。戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」。土方家の菩提寺は高幡山金剛寺(高幡不動)であり、歳三の位牌も金剛寺本堂の大日堂に納められています。土方家の墓所は金剛寺の末寺であった石田寺にあり、ここに土方歳三義豊の墓石も立てられているのです。NPO(特定非営利活動)法人 日野市観光協会 〒191-0011 東京都日野市日野本町2-15-9 TEL : 042-586-8808  FAX : 042-586-8961 お問い合わせはこちら© NPO法人 日野市観光協会 All rights reserved.

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