西郷どん///會津藩。

昔、

地元で流れていた味噌屋のCMだったか

「會津の人は頑固だからなぁし」

昔、

他県の人の話で會津に営業に行くと

3回は泣かされて帰ってくるほどだった。

ただし一度信用されると絆は永遠になると。

そんなに頑固なのかな?

とは思いつつもそれが

會津人のイメージなのだろうか。

白虎隊、新撰組。悲劇の会津物語。

私ら世代は

歴史はそう聞いてたし、教わっているが

120数年の恨みなどと言われるけど

八重の桜な誠実さな哀しみはあれど

少なくとも私は

一ミリも恨みなどは思っていない。

近頃になって

歴史は作られていたことが判明したけど

語り継がれる哀しみが

歪むのもしかたない気がする。


《抜粋》

明治元年、秋。

激しい戦闘を繰り広げた

鶴ケ城やその周辺では、
戦後の埋葬がかなり

簡易な処理で済まされ、

遺族にとっては遺品も持ち帰れずに

埋められただけでした。

埋葬の仕方も甘かったのでしょう。

地表から亡骸が露出し、

野生動物に食べられてしまう

遺体もあったほどです。

特に激戦地であった

鶴ヶ城の中にあった遺骸は、

ほぼ放置状態。

高さ15メートルの井戸2カ所に

遺体が次々に放り込まれ、

それでも埋葬場所が不足し、

二之丸梨子園にも埋葬されたほどです。

こうした遺骸は、

それから約半年もの間、

放置されるのでした。

雪の深い会津で冬の間はどうしようもなく、

秋から半年ほどを経て、

ようやく改葬の目処が立ったわけです。

ここで先の町野主水に注目を。

彼等はなぜ軍務局に向かい、

必死の交渉したのか。

その内容は

以下の二点に集約されておりました。


・罪人塚に改葬することは辞めて欲しい

・埋葬担当者を

 賤民にすることは辞めて欲しい

要するに、

改葬に関して

悪意をもったやり方はやめて欲しい

そう願い出たのです。

会津は、

死体の埋葬を

禁じられたワケではありません。

しかし、

現実に遺体はぞんざいな扱いをされていて、

どうしても新政府サイドの

悪意を感じざるを得なかった。

(BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン))

今回、

左足指の骨折で入院して

暇を持て余してた時

親友が教えてくれた

「薩摩義士伝」

この作品を読んでからというもの

薩摩藩の哀しみが言葉悪いけど

とても身近に感じられて

俄然興味が沸いて勉強中。

NHK大河の「麒麟がくる」も

放映中止になってから

【西郷どん】

にめっちゃハマり(今ごろ)

毎回大泣きしている。


まだ話、中盤にもなっていないので

今後が楽しみなのだが

なぜ

あれほど人として素晴らしい西郷隆盛が

會津に冷たかったのかが

最終的な見どころなのだ。

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